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バトルウォッチャー・哭きの竜さんの12年

 前置き

 2005年1月16日に、ネットウォッチ系のサイト「ザ・バトルウォッチャー」さんが閉鎖されました。

 管理人さんは、インターネットが普及するよりも前からネットバトルをウォッチし続けてきた凄い人。そのサイト内容には、歴史的・資料的な価値があると思います。

 そこで、バトルウォッチャーさんのことをよく知らない方向けに、そのあらすじをまとめてみました。


 見出し一覧
 ■1993年:バトルウォッチャー誕生(補足:「哭きの竜」について
 ■1995年:バトルウォッチ→飽きる
 ■1996年:飽きる→バトルウォッチ(主な出来事:「鬼畜王VS千破矢」事件
 ■1997年:正理研究会とのバトルに参加
 ■1998年:「ザ・バトルウォッチャー」(主な出来事:三枝さんバトル
 ■1999年:「ザ・バトルウォッチャー2nd」(補足:2ちゃんねるとの出会い
 ■2000年:「真 ザ・バトルウォッチャー」1年目(主な出来事:「伊藤さんの物語」事件、補足:「あらすじ文学」について
 ■2001年:「真 ザ・バトルウォッチャー」2年目(主な出来事:2ちゃんねる閉鎖騒動1ch騒動
 ■2002年:「真 ザ・バトルウォッチャー」3年目(主な出来事:1ch騒動(つづき)チャンピオン系スレ粘着荒らし
 ■2003年:「真 ザ・バトルウォッチャー」4年目
 ■2004年:「真 ザ・バトルウォッチャー」5年目
 ■2005年:「真 ザ・バトルウォッチャー」終了


 12年前(1993年):バトルウォッチャー誕生

 細川連立内閣が発足し、Jリーグが始まって、「美少女戦士セーラームーンR」が放送された年。

 インターネットが一般に普及するのはもう少しだけ後の話で、当時の主流は会員制のパソコン通信。その最大手がニフティでした。
 たとえば、ニフティの「サイエンスフォーラム」では、当時から野尻抱介先生と山本弘先生が「科学の天使 スーパー・ノヴァちゃん」の話で盛り上がったりしています。

 そんなニフティに、趣味の歴史や軍事に関する情報を求めて、1人の男性が現われました。
 のちに哭きの竜というハンドルネームを名乗ることになるお兄ちゃんです。

 当時はユーザー数も少なく、パソコン通信は情報収集に向きませんでした。しかし、そこでお兄ちゃんは、生まれて初めてパソコン通信で本気でケンカしている人たちを目撃します。
 詳しい経緯はお花畑の狂詩曲(ラプソティ) 第1部で述べられていますが、とにかく口論から掲示板閉鎖までを見届けたお兄ちゃん。次のように考えます。


 パソコン通信の発言者・掲示者達にはそれぞれキャラクター性があり、人間関係があり、社会があり、そこから紡ぎ出されるドラマがあるのだ。
 そのドラマが最も浮き彫りになるもの…それがバトルだ。パソコン通信ではどんな情報よりもバトルが一番面白い


 1人のウォッチャーが誕生した瞬間です。

 「猿の軍団」を小2で見たという自己紹介を信じるなら、お兄ちゃんが20代後半の時のことでした。

 ※「猿の軍団」……当時の流行だった「1ばんめのこな(猿の惑星)」と「2ばんめのこな(小松左京)」をねるねるねるねした特撮。裏番組は「アルプスの少女ハイジ」と「宇宙戦艦ヤマト」で、当時「ヤマト」はあまり人気がなく、「猿の軍団」と「ハイジ」で人気を二分していた

 なお、お兄ちゃんは、その初めてのバトルウォッチだけで1万円を失ったそうです。
 現在のような常時接続はなく、「1分10円」といった課金制。パソコン通信に月5万円とか払ってる猛者がゴロゴロいた時代でした。

 補足:「哭きの竜」について

 「哭きの竜」というハンドルネームは、漫画「哭きの竜」から取ったものでしょう(漫画のキャラクターを演じたりするわけではなく、単に名前を借りただけの様子)。

 ※「哭きの竜」……「あンた 背中が煤けてるぜ」などの決め台詞が人気の麻雀漫画。極道のおっさんが「竜よ〜〜っ おめぇの運をわしにくれ」と叫び、竜がチーやポンをすると麻雀牌が閃光を放つ

 このハンドルネームについて、お兄ちゃんはこう語っています。


 わたしも自分のハンドルの元ネタが意外に知られていないことには軽いショックを受けました。麻雀漫画の不朽の名作だと思っていたのに。
 オフ会で「なげきのりゅう」と呼ばれたときには軽い頭痛が・・・


 また、実は最初から「哭きの竜」を名乗ったわけではなく……。


 なお、FSF3でのわたしのハンドルは「雨宮 賢」です。なんでハンドルを変えたかというと、ハンドルだか実名だか分からないと言われたからです。


 ……そう。お兄ちゃんは、パソコン通信の事情で哭きの竜の皮をかぶることになりましたが、正体は雨宮賢なのです。

 人間の力をはるかに超えた竜の麻雀をもしもこの世に敗るものがいるとすれば――雨宮賢

 そんな鳴り物入りで「哭きの竜」に登場した雀士が、雨宮賢でした。
 「牌をなくなど邪道」というポリシーを持ち、相手が牌をなくたびに、「ひとつさらせば自分をさらす」「ふたつさらせば全てが見える」「みっつさらせば…地獄が見える」とつぶやきます。

 ちなみに、雨宮が竜と会話すると、次のようになります。

 竜「あンた 背中が煤けてるぜ
 雨宮「くっ そのセリフ しかと胸に刻んだ!

 雨宮「ひとつさらせば自分をさらす
 竜「ふっ――自分をさらせば 己れがまた哭きたがる

 そして物語終盤、このままでは竜に勝てないと思った雨宮は、こう決意します。
 「この一局15分――この一局に勝っても負けてもオレは死ぬ…そう思えばいい」「そう思えばこの一局に全てを賭けられる」「全身全霊…賭けられる」「この一局が終ればオレは死ぬ」「15分の命」「ひゃはっ ひゃはっはっはっ

 そして、「あとオレの命 10…分」「オレの命……あと5分」とカウントダウンしながら麻雀を続けた雨宮。
 偶然か必然か、残り時間ちょうどに銃で撃たれ、「め 眼鏡を」「…誰か」「眼鏡を…下さい」「…見えない」「だ 誰か…眼鏡を」「…下さい」「…眼鏡を」「…下さい」と言いながら絶命するのでした。


 10年前(1995年):バトルウォッチ→飽きる

 時代は変わって1995年。阪神大震災や地下鉄サリン事件が起こり、「新世紀エヴァンゲリオン」の放送が始まった年です。

 ネット業界では、Windows95が流行り、テレホーダイ(夜11時から朝8時まで、ネットの電話代が固定料金で済ませられるサービス)がスタート。
 しかし、「なんかマルチメディアってのが流行ってるから30万でパソコン買ったんだけどエロゲーにしか使ってねぇよ」という人もまだ多く、だれもがぼんやりマウスをカチカチしているだけで何となくヒマを潰せる時代はもう少し先のことです。

 そんな頃、海外に行っていたお兄ちゃんが、日本に戻ってきました。さっそく、ニフティでケンカしている人たちを眺めて楽しみます
 このころ見聞きしたバトルの様子について、お兄ちゃんはお花畑の狂詩曲(ラプソティ) 第2部で楽しそうに語っていますが、結局、すぐに飽きてしまいます


 元々が飽きっぽい上にバトルウォッチングはネタ探しがなかなか大変である。課金もそうだがとにかく時間がかかってしょうがない。しかも、これは他のホビーと違って実技にも知識にもならん 本格的に後々自分の為になることが何もないときた。
 実は、バトルウォッチングというのは新参会員の一部がかかる麻疹みたいなもので、ぼちぼち出来始めたネットの友人達の一部もこれに罹るが例外なく全員すぐにこれに飽きてしまっていたのだ。



 9年前(1996年):飽きる→バトルウォッチ

 インターネットの普及は進み続け、「日本初のインターネット犯罪摘発事件」(エロ画像をネットに流した28歳会社員が逮捕されて有罪判決)があった年。

 ニフティでは「鬼畜王VS千破矢」事件が起こっていました。

 インターネットと違って、 ニフティは固定ハンドル制。パソコン通信上の対立は、個人対個人のドロンドロンの罵倒合戦に発展します。
 「SPA!」誌上討論会から、当時の様子が伺える部分をご紹介しますと……。

千破矢 「僕自身は被害者です。個人情報をあさられて、それをニフティのBBSで公開されているわけですから。電話番号や住所に始まって、僕のマンションとか顔写真とか。あげくのはては鳥取にある実家にまで押しかけて自宅周辺の写真を撮って、ネット上でばら撒かれているんですよ」
鬼畜王 「それは仕方ないじゃないかなぁ。こちらにいわせればキミは甘いんだよ。ニフティのBBSに書き込むためには本名と都道府県までの住所を公開しなければならないわけでしょ。こんなところで派手な掲示をしていれば電話番号を調べられるのは当然です」
「千破矢くんの自宅周辺すし屋リストなんていうのもありましたが」
鬼畜王 「あれは大変だったんですよ。『イエローページ』で調べて、電話番号をひとつひとつ打ち込んでいきましたから。あれを見てみんなに笑ってもらえればうれしいかなくらいの感じでやりました」
千破矢 「あなたたちのやっていることはまったく、くだらないですね」
鬼畜王 「彼は自分だけ被害者みたいなことをいっていますが、僕だってそんなのきている決まっているじゃないですか。今は結婚して家を出ていますが、実家の方は電話番号を公開していたのでイタ電話が1日5回ぐらいはきていましたよ。それどころか、僕なんかは会社にちょっかいだされたんです。(略)人事課へ『なんであんな奴雇とっているんだ』と電話入れたり、ケンカのログの郵送されたりとか」

 ……この頃のネットバトルでは、住所がバレてイタ電をかけられるのは常識だったようです。

 ともあれ、これを生で目撃したお兄ちゃんは大喜び


 いや〜ネットにはまだこんなに面白いことがあったんだ。バトルウォッチングも捨てたモンじゃないねぇ(笑)


 再びバトルウォッチ熱をあげるのでした。


 8年前(1997年):正理研究会とのバトルに参加

 97年の頭にもなると、インターネットもだいぶ普及していました。

 日本でインターネットの未来に思いを馳せるのが一番楽しかったのはこの頃でしょうか。「インターネットはからっぽの洞窟」が翻訳される一方、「もしインターネットが世界を変えるとしたら」では、インターネットのリンクについて、次のように述べられていました。
 「このような物理的な距離を越えてトランスローカルに連帯する発想は、新しいタイプのコミュニティーの基礎になるだろう。そこでは、国土と一体になった国家の発想は終わっており、近代国家の先にあるものが示されているのである

 そんな時代の流れに押されて、会員しか参加できないニフティは、だんだんとすたれていきます。

 そんなある日、お兄ちゃんは、ニフティで「正理研究会のメンバー」と「その他一般人」がやり合っているバトルを目撃します。
 詳しい経緯はお花畑の狂詩曲(ラプソティ) 第3部に書かれていますが、お兄ちゃんは正理研究会に対して「ちょうど不潔なゴキブリを見たら叩きたく潰したくなるような」感情を抱いたそうです。

 そして、これまでバトルは「ウォッチ」だけだったお兄ちゃんが、はじめて、正理研究会を罵倒する側として参加します。
 ところが、正理研究会の人たちは、罵倒側の主要メンバーの相手だけで精一杯。お兄ちゃんは、いくら罵倒してもあまり返事をもらえません

 そこで、相手に直接怒りをぶつけるよりも、むしろバトルをウォッチしている人たちを笑わせることが目的の発言をする方針に切り替えます。


 時折受けたらしくROMの人から「ぎゃはははは」とか「面白すぎー」とかメールが来るようになった。これがわたしにとっては何よりの励みになった(笑)
 (略)
 例によって基本的には相手にしてもらっていなかったのだが、そんなことはどうでも良いのだ。お客さんに喜んでもらうことが重要なのだ


 それをしばらく続けたお兄ちゃんですが、11月には「もう完璧に飽きてしまったのだ」となります。


 7年前(1998年):初代「ザ・バトルウォッチャー」

 「カードキャプターさくら」が始まった年。
 ネットでは、11月に「絶望の世界」が開設され、年末にはドクター・キリコ事件(24歳の女性が自殺系サイトで買った青酸カリで自殺し、そのサイトの管理人も女性の死を知ると自殺した事件)がありました。

 「その後、ちょっと書けないことが色々あって、とにかくマジで全くやる気がなくなった」というお兄ちゃんは、もう二度と人を罵倒しないと決心。
 「バトルは見るけど、戦わない」という方針を掲げて、ニフティの中に、「秘密結社 ザ・バトルウォッチャー」というパティオ(掲示板みたいなもの)を作ります。


 このパティオの目的は、時に良識派から「野次馬」と罵られるネットワーカーの「陰花草」我々バトルウォッチャー達の情報交換の場とすることです。

 このパティオでは、主に以下の話題を扱います。
 (略)
 2.掲示板、フォーラムにおけるバトルの発生情報
 3.掲示板、フォーラムにおけるバトルの情報交換、論評
 4.掲示板、フォーラムで見つけたおかしな掲示、笑える発言
 (略)
 我々バトルウォッチャーは、何もバトルに介入しようとしている訳ではない。ただオープンの場所で行われているバトルを見たいだけなのです!!


 お兄ちゃんはこの時の心境を、「秘密結社 ザ・バトルウォッチャーの歴史」で次のように語っています。
 「立ち上げた動機はまごうかたなく単なる思いつきと道楽である」「何のビジョンも計画もなく、当時ニフティに散在していたアングラパティオをつくりたかっただけなのだ」

 そして、最初の数ヶ月は、お兄ちゃんが「冷蔵庫時代」と呼ぶ時期。あまり話題もなく、お兄ちゃん自身、「見るに忍びなく1週間に一回しかアクセスしなかった」そうです。

 その後三枝(さいくさ)さんが登場。普通の会話をしているところでも、この方が参加するとなぜか罵倒合戦になってしまうという不思議な人物で、ニフティがどんどん荒れていきましたちゆニュース「ニフティ会議室の名誉毀損、地裁判決」にも三枝さんが登場)。
 これに喜んだお兄ちゃん、三枝さんの議論術を「人を怒らせる秘孔を突く北斗神拳」にたとえてみたり、三枝さんの発言時間帯を細かく調べた表を作って「本当に仕事をサボってニフティにのめっているのか」を検証してみたりと、いじり倒します

 その他にも色々あって、バトルウォッチャーは賑わいました。


 9月にはダカーポに取り上げてもらった。11月にはNIFTY・マガジンにも取り上げて頂いた。(略)鼻高々である。
 (略)
 変に目立ち始めたのも事実で、この頃から苦情が頻繁にわたしの元にやってくるようになった…胃が痛かったがまぁ泣き言は言うまい。


 ところが、のちの発言では、「ぶっちゃけた話、98年の11月頃に飽きたんだよ」とも告白しています。
 そんな思いもあってか、「ザ・バトルウォッチャー」開始から1年ほど経ったある日、お兄ちゃんは、その閉鎖を告知するのでした。曰く、


 ネットにかけている時間が多すぎたので副業を増やすか、なにか資格取得のための勉強をするか生活の糧になることをしなきゃならんと考えていた。
 竜は考えていた、30歳過ぎていつまでもこんなことをしていてはイカン



 6年前(1999年):「ザ・バトルウォッチャー2nd」

 この年、バナナをくわえて大人気になったネットアイドルのMICHIKOさんが100万アクセスを突破。「ネット界の怪物」と呼ばれ、写真集「バナナ伝説」が発売されました。
 また、5月には2ちゃんねるがスタート東芝クレーマー事件などの話題で盛り上がり、年末にはかなりの規模になっていました。

 さて、この年の頭のことを、お兄ちゃんは「第48装甲軍団の死闘」という文章の中で、次のように思い返しています。


 あの時(1999年1月16日)に、最初の目論見通りにパティオを閉鎖していれば、、、と、ふと竜の頭によぎることがある。

 彼はインターネットの隆盛によって活動基盤にしていたニフティが早晩衰退することを承知しており、それ以上に自分自身がネタ切れになることもよく知っていた。実際問題として自分自身でも98年の10月頃にパターンもテクニックも使い果たしたと感じていた

 まぁ論理的にあの時点が潮時と考えていた。つつがなく勝ち逃げできれば、まずまず上々の出来。あれでネットからあっさり消え去る算段、あれきりもうどこにも書き込まないつもりだった。


 ところが、お兄ちゃんにかわって「ザ・バトルウォッチャー」を引き継ぎたいという人物が登場。
 お兄ちゃんもこれを了解して、「ザ・バトルウォッチャー」の終了と入れかわりに、後継パティオ「ザ・バトルウォッチャー2nd」が誕生しました。

 オーナーは別の人にかわったのですが、お兄ちゃんもちょこちょこと発言。末期のニフティで散発するバトルをウォッチしていくことになります。
 お兄ちゃんのこの年の感想は、次のようなものでした。


 昔はよかったと懐かしむのはジジイの証拠だが、今年は大バトルがない

 昨年は「火の7日間」を始めとする様々な会議室を潰す破壊力のある三枝さんバトルがあったし、(略)その前はSPA!にも取り上げられた「千破矢騒動」があった。
 今年はどうも、こういう3ヶ月はこれだけでメシが食えるというロングランの大ヒット作がない。(略)本当に、これが噂の人類滅亡の年・1999年なのか?


 そして、11月。バトルをウォッチするはずの「ザ・バトルウォッチャー2nd」内でバトルが発生のちのホームページでは、この件を次のように振り返っています。


 長文論争とゴミ撒き、絡み屋の跳梁跋扈の結果、世間様からは面白くなくなったとか、 鳥かごになったとか言われる始末。
 パティオに内包する問題を処理するために大手術が執刀される。(略)影響は大きく出血多量により発言数は激減


 さらに、「@niftyのバトルウォッチャーPATIOを考える」などの2ちゃんねるのスレッドから、このバトルウォッチャー内バトルをウォッチされるという事態に。
 お兄ちゃんは、「自分のやっていたお株を奪われたと強く感じた。お客さんがあっちへ流れてしまう。バトルウォッチャーパティオの存在意義そのものが喪失してしまうと焦りを感じた」そうです。

 補足:2ちゃんねるとの出会い

 2ちゃんねるに初めてアクセスしたときのことを、「2ちゃんねる中毒」という本のコラムで、お兄ちゃんは次のように振り返っています。


 ニフティウォッチャーだったわたしが2ちゃんねるへ初めて足を踏み入れたのはいつのことだろうか、本人もよく覚えていない。恐らく一九九九年の半ば、(略)
 当時の2ちゃんねるは印象が薄い。わたしの目には「よくあるアングラ掲示板の一つ」に過ぎなかった。よく覚えていることは、やたらと「名無しさん」というハンドルの人が一人で頑張っているということだった…… 「名無しさん」がどういう意味なのか理解するのに十五分程を要した。


 ちなみに、そこでの2ちゃんねる評は、次のようなものでした。


 2ちゃんねる以前のバトルは個人と個人との戦いだった。彼らは互いの主張をぶつけ合い。泥沼の論争になり、そして潰しあい。時には裁判沙汰になった。
 (略)
 2ちゃんねるでは、ほとんどすべての人々が名無しさんである。一つのスレッドに彼らが何人いるのか、そもそも何者なのか、誰にもわからない。
 2ちゃんねるでカキコしている名無しさんたちは個人と言えるのだろうか? そもそも、彼らは人間と言えるのだろうか? 2ちゃんねるで日々膨大なカキコを吐き続ける名無しさん……わたしはこれを「電網群生生命体」と呼んでいる。「全にして個、個にして全」の存在である名無しさんはパソコン通信の古代から続いたネットワーカーの進化の最終形態なのだ。
 (略)
 この電網群生生命体は、ネット史上最強の存在である。わたしがかつて観てきたいかなる論客、いかなるバトラーよりも強力だ。なにしろ、名無しさんは誰なのか何人いるのかさえわからないから叩かれた方には反撃をする術がない。固定ハンドルは一方的に叩かれるのみである。


 もちろん、参加している名無しさん一人一人の側からはまた違う世界が見えるでしょうし、別に2ちゃんねるはバトルするだけの場所ではありませんが、外部からの視点で、2ちゃんねるをバトラーとして見た分析としては面白いと思います。

 なお、2000年12月23日の日記には、「わたしはかつてとある板でモナーから心ないレスを付けられてひどく傷つき、モナーを心から憎むようになり、(略)今でもあの時の心の傷は癒えていない」ともあります。


 5年前(2000年):「真 ザ・バトルウォッチャー」1年目

 この年、自殺志願者の管理人が自殺決行までの日数をカウントダウンしていくホームページ「終る世界」が話題に。約束の最終日(2月5日)に「それでは、行ってきます」と書き残して、更新が途絶えます。

 さて、「ザ・バトルウォッチャー2nd」は、「諸般の事情により」1年で終了。
 次のオーナー候補が現われなかったため、ふたたびお兄ちゃんが引き継ぎ、3代目になる「真 ザ・バトルウォッチャー」がはじまりました。

 「第48装甲軍団の死闘」という文章では、この時のことを、次のように思い返しています。


 竜は、やる以上は、とにかくBWP(バトルウォッチャーパティオ)をやっていたことを後悔したくはなかった。
 ニフティがしょぼくなってダメになるのは知っていたから、生き残りをはかるためにインターネットに活路を求める戦略方針を立てた。HPをつくってもらい、メルマガも発行した。


 そうして、「ネットレスリング」 「2CH/広末板のklissさん」 「ネオむぎ茶事件」など、精力的に更新するお兄ちゃん。
 ニフティからインターネットに流れていった三枝さんの様子も、「三枝 VS 細田 家庭裁判所編」 「星になった三枝さん」 「三枝さんの逆襲」と追いかけていきます。

 しかし、この頃のお兄ちゃんの心境は、実は次のようなものだったそうです。


 3月頃の話だ、とうとうその時が来た。竜は書けなくなり始めた。書くのが苦痛になった。(略)でも、投稿情報はいっぱい来る。やらなきゃいけないと思った。ここで逃げたらあとあと後悔すると思った。這うようにして観て書いた。
 自分がそのうちネタとパターンが尽きて書けなくなると云うか書くことが苦痛になるのはあらかじめ知識としては知っていたが、これほどにシンドイとは知らなかった
 (略)
 ギャグというのは大量の気力を消耗し、ネタが尽き果てるときが早い。
 少年時代に竜が穴が開くほどに愛読した漫画は「マカロニほうれん荘」と「すすめパイレーツ」である。(略) だが、「マカロニほうれん荘」と「すすめパイレーツ」の末期は悲惨である。最盛期にはあれほどに緻密に書き込まれていた線がスカスカになり、ストーリーに至ってはネタをつぎはぎをしているだけでもはや読むにも絶えず。両作品の末期は才能の残骸と言っても良い。

 最盛期と同じモノを書けばいいだけではないか? なぜ書けないのか? 少年時代の彼には不思議だった。だが、いまの彼にはよく分かる。書けないのだ。同じモノがだ


 また、先日「お株を奪われた」と感じた2ちゃんねるに対しては、次のように考えていたそうです。


 2ちゃんねるはあれよあれよと見る間に巨大化してマスコミにも登場するようになった。
 (略)
 2ちゃんねるは彼にとって、その背景の通りに、立ちふさがる巨大な壁だった。敵だった。だから嫌いになった。あんなものは潰れてしまえ、この世から消え去ってしまえと何度も思った


 2ちゃんねるの管理人・ひろゆきさんに対しては……。


 竜はひろゆき氏の存在を憎んだ。なぜこんな時に現れたのかと呪った。そして、そういう自分を必死で否定した。みじめすぎるからだ。
 (略)
 5月のネオむぎ茶事件の時に2ちゃんねるが取り上げられ、ひろゆき氏がニュースステーションの画面に登場した。
 それを始めて見たとき、竜はこう思ったという。「見るからにイヤなヤツだ。」(略)美形の部類と言っていい顔。ビシッと決めた服装。冷静でしっかりした語り口。いかにも能力があって仕事ができる若者。竜は、ひろゆき氏の外見の全てが気に入らなかった。老人にとって若者はその存在自体が傲慢である。許せないとさえ思った。


 そんな思いを抱きながらも、お兄ちゃんは、夏のコミケに向けてバトルウォッチャーの同人誌を制作。

 同人誌の題材に選んだのは、ニフティのフォーラムなどを舞台に起こった、伊藤剛さんと唐沢俊一さんの確執でした。
 事件当時、それを話題にしていたバトルウォッチャーのパティオに、当事者である伊藤さん本人が登場。お兄ちゃんが伊藤さんに蒸し鳥チャーハンと生ビールをおごる約束を交わしたりしました。そうして多少の接点があった伊藤さんに、お兄ちゃんは同人誌への寄稿をお願いすることにします。

 そして、お兄ちゃんの文章「伊藤さんの物語」「オタクアミーゴス編」 「夏エヴァ編」 「あれは何だったのか?編」 「激突!裁判編」 「"オタク"が終わったあとに編」 「THE LEGEND OF ITO ONE MORE FINAL」の6部構成)に、伊藤さん本人の寄稿文などが加わった同人誌が完成しました。
 なお、お兄ちゃんの文章は、唐沢さん側の主張に偏って書かれており、伊藤さん側からの見解は、「唐沢くんかわいそうに」裁判当時の伊藤さんのホームページのコンテンツ裁判後の主張「"オタク"が終わったあとに」などで読めます。

 また、この頃、「インターネット無法地帯」という本への原稿依頼が来て、お兄ちゃんはライターデビュー。ハタから見ると、順調な活動に見えました。

 しかし……。


 やらなければいけない。やるべきことは沢山ある。この程度じゃダメなんだ。なぜできない。ストレスが溜まる。そして彼はストレスから来る不眠症と慢性疲労に悩まされることになった。
 ネタ切れとあいまって書くことが苦痛になった。バトルのログを読むことが苦痛になった。それでもやらなきゃいけない。他にオレになにができるというのか。


 お兄ちゃんは、依然として悩み続けていました。
 8月末には、こんなことを考えるようになります。


 いつしか、竜はBWPの今後についての決意や生きるだの死ぬだのをしきりに言いだし始めた。
 (略)
 生きると言う度に死へのこの世から消え去ることへの憧憬が増していった。逃げたかった。


 そして、来年の1月16日までに「自分が納得できるなにがしかの成功」を得られなければ、パティオもホームページも閉鎖してネットから消え去るという決意をするのですが……。


 彼のこの世から消え去ることへの自己陶酔は増していった。危険である。

 そして、8月末のことだ。(略)彼はある決意をしてしまう。
 2001年1月16日(火)までに、何の成功も勝ち取ることが出来なければIDどころか自分の存在自体をこの世から消し去る、、、と。
 自分は役にも立たない存在だし、生きていても面倒ばかりが続く、結局は負けてばかりで何の楽しいこともなかった。ここでもまたまた負けるのならば自分自身に見切りをつけても良い頃だろう。

 バカげた話だが、そんな自分を竜は異常とは思ったが不思議とは思わなかった。

 自分がこの世から消え去ることは至極自然なことだと思った。実家の親は涙を流すだろう。仕事関係ではひどく迷惑をかけるだろう。ネットでは15chあたりでこのネタで盛り上がるだろう。それはすごく現実的で自然なことだ。

 竜はこの勝つために文字通り自分自身の命を賭けるという決意に陶酔した。


 それは、哭きの竜のライバル・雨宮賢の発想です。


 その日が過ぎたならば、その夜ひとりで祝杯をあげよう。負け確定を記念して。
 (略)
 今生の名残に、大枚はたいて高級ソープへ行って女を抱く。生涯得ることが出来なかったぬくもりというモノを金で買うのだ。それが終わったらインターネットで自殺の方法を探す
 (略)
 決行はいつでもいいが土曜日の夜。一日ぐらいはひとりで自分のどうしょうもなかった人生を回顧して悦に入る
 ブランデーでぐでんぐでんに酔っぱらって、そろそろ良いかなと思ったら苦しまないようにあらかじめ睡眠薬を飲んでおく。気分がハイになったところで、、、おもむろに毒物を口に放り込む。ジ・エンド。


 こうして、「なにがしかの成功」を目指しながら、自殺カウントダウン生活を始めるお兄ちゃん。……でも、『哭きの竜』の雨宮賢は、発狂したように麻雀を打ち続け、「眼鏡を…下さい」と死んだのです。

 9月1日。
 お兄ちゃんは、ひろゆきさんが出演するイベントを見に行きます。


 美人の女性を連れてやってきてお座敷席で仲間達と談笑するひろゆき氏。壇上では若者らしく軽妙かつ面白い会話を連発するひろゆき氏。
 (略)
 若くして成功を収める男とはこうなんだろうか。スポットライトを浴びた壇上のひろゆき氏と暗い客席の奥のコーナーに座っている竜。それが、ひろゆき氏と竜との厳然とした差だった。

 ひろゆき氏は若さも能力も美人の彼女も成功も、、、竜が欲するモノ全てを、まるで当たり前の様に軽く手に入れられる男だった。若くて能力のあるひろゆき氏が憎かった。そして、そう思う自分を必死で否定していた
 みじめでバカげた話ではある。竜はひろゆき氏のことは知っているが、ひろゆき氏は竜のことなぞ知りもしないのだ。


 9月3日。
 愛・蔵太さんの「ReadMe! おすすめサイトありったけレビュー」で、「真 ザ・バトルウォッチャー」が「更新頻度には難があるし、世間に対する目も広くないようです」と紹介されているのを知って、お兄ちゃんは地味にヘコみます

 そして、9月20日の夜。


 突然、携帯電話が鳴った。電話に出る。どっかで聞いた声。
 伊藤剛さんだった。伊藤さんは凄く怒っていた。怒っていた理由は同人誌で発売した「伊藤さんの物語」だった。怒鳴られた。怒鳴って、怒鳴って、怒鳴られた。


 伊藤さんが怒った理由は、事件を中立の立場から見た本だと思って寄稿したのに、お兄ちゃんの文章が、唐沢さん寄りに偏った内容だったから。
 お兄ちゃんは、「伊藤さんの物語」廃刊についてとして、同人誌を廃刊処分にすることを告知します。曰く、


 わたくしが最も問題があると判断いたしましたのは、作品のスタンスについて明確に伝えることなく伊藤剛氏ならびに竹熊健太郎氏に寄稿の依頼を行いなおかつこれを掲載したことにあります。


 この出来事で、「ますます書く事もログを読むこともできなくなった」というお兄ちゃん。

 9月23日。
 今度は永山薫さんから電話がかかってきました。


 永山氏も怒っていた。「伊藤さんの物語」で触れた「フィギュア王」に関する記述の件だ。怒鳴って、怒鳴って、怒鳴られた。

 竜は必死で脳味噌を整理して、ツギハギの弁解にかかる。
 竜は口惜しかった。自分の命、あと115日と命を賭けて一発逆転を目指しているのに、そう決意した途端に、なぜにこう後から後から試練が押し寄せてくるのか。なぜ、物事がうまくサクサク進まないんだ。天は俺に死ねと言っているのか。


 とにかく、永山薫さんに「言論の方は言論でつけなければならない」と諭され、お兄ちゃんは、この件に関する自分の意見を文章化する約束をします。

 その後も、同じように生活が続いていき……。


 10月20日、今日は副業のため遅くまで仕事だった。疲れた。寝る。今日もネットに接続しなかった。俺の命、あと88日、、、

 10月21日、朝方ネットに接続してメールをだけを受信する。BWPには行かない。BWPを紹介した雑誌を読んでHPを観に来たという人からお褒めのメールが来ていた。苦しくて辛くて全部を読み通すことが出来なかった
 今日は1日中仕事と仕事がらみの付き合いが重なり遅くなる。ダラダラ居残って終電で帰宅。当たり前のようにすぐ寝る。全ては明日からだ。俺の命、あと87日、、、


 そして、10月22日。


 俺の命、あと86日、、、やらなきゃなぁ、、、命を賭けてるんだぜ
 (略)
 手近の古い本を引っぱり出す。適当に摘み読みする。30分、1時間、、、バカバカしい、やめた。竜は何をやめたのか。竜は、唐突に「ダメならこの世からきれいサッパリ消え去ろう」計画をやめてしまったのである
 (略)
 竜の脳内で着々と進行していた「ダメならこの世からきれいサッパリ消え去ろう」計画は、タイムリミットまで86日を残して全面破棄されたのであった。その時、竜が読んでいた古い本は、コマンドマガジン日本語版17号、記事は「第48装甲軍団の死闘」だった。


 その後、お兄ちゃんは、永山薫さんとの約束を果たすため、先ほどから抜粋させて頂いている文章「第48装甲軍団の死闘」と、「あらすじ文学論と伊藤氏と唐沢氏の問題に関するわたしの意見」を書きました。

 補足:「あらすじ文学」について

 「あらすじ文学論と伊藤氏と唐沢氏の問題に関するわたしの意見」は、お兄ちゃんがどのような活動スタンスで「伊藤さんの物語」を書いたのかを表明するものでした。


 ネットでトラブル(バトル)が発生し、様々な人々が参加し長大なツリーが長期的、短期的、継続的、散発的に形成される。
 そこから生まれるログはえてして膨大であり、個々の発言は長文になりがちとなる。(略)そのため、この様な願いが人々から必然的に発せられるようになる。
 「要点を簡単にまとめてプリーズ>詳しい人」

 この、「なんでこうなったか知りたいけど、ログを全部読むのは面倒くさいからイヤ」という人々の需要に応える形で「詳しい人」が事件の経緯を圧縮し、ノイズを除去した発言を行う。

 こうして成立したのがネットの伝統芸能である「あらすじ文学」なのだ。
 (略)
 「あらすじ文学」はネットの事件を後世に語り伝える史書であり、われわれ「あらすじ文学者」は「史記」「三国志」「三国志演義」を書き残す司馬遷であり陳寿であり、そして羅貫中なのだ。


 お兄ちゃんによると、「あらすじ文学」は、3種類に分けられるそうです。

 ●資料体(生ログをそのまま無断転載する)
 ●記事体(経緯を自分の言葉でかいつまみ、引用をまじえつつ要約化する)
 ●小説体(事件経緯をひとつの完結したストーリーに疑して物語化する)

 当「ちゆ12歳」にも、「あらすじ」の類の文章がありますが、その分類なら「記事体」にあたるものが多いと思います(「はじめてのおるすばん」騒動エッグマンの挑戦など)。
 まあ、ちゆの場合はネットの出来事に限らず、幼女誘拐事件のあらすじとかガンダムSEEDとか、何でもかんでもとりあえずまとめておくのが好きなのですけど。

 それはさておき、お兄ちゃんが得意なのは「小説体」で、「事実関係そのものを超越して、事件の物語性、ストーリー性を重視する」こともあるそうです。


 作者の価値観が大量に挿入された物語が歴史になってしまっては困ると云う意見もあるだろう。ならば、わたし以外の誰かが陳寿となり作者の主観を排し努めて実録に則した正史となる「三国志」を書けば良いのだ。
 歴史とは書き残さなければ歴史にはならないのだ。誰も「三国志」を書かなければ、「三国志演義」だけが歴史として後世に残る。ただ、それだけのことだ。

 理系の人々にとって真実とはただ一つの動かしがたいモノである。
 だが、政治学を修めた文系人間のわたしは知っている。真実は後からつくられるものであり、それは無数に存在しえ、または消滅し、そして解釈によって幾らでも変化するモノなのだ


 12月23日の日記でも、自分のサイトについて、お兄ちゃんは次のように書いています。


 この際、速報性やニュース量は諦めて「あらすじ文学」に特化した方が良いかも知れない。

 つまり、事件をつくるのは当事者たち、事件を世間に伝えるのは【あ!ネット】さんや2ちゃんねるのネットウォッチ板。だが、彼らはやがて時の流れとともに膨大なログの中に埋もれ消えてゆく

 そこで、わたしが幾つかの(全てではない)重要な事件を「あらすじ文学」化して残す。
 後世の歴史家達は膨大な生ログを読むことを厭いわたしの残した「あらすじ文学」を読むしかなくなる。わたしの書いた「あらすじ文学」が歴史となるのだ。例えそこに事実誤認や調査不足があったとしてもだ(これは今も昔も歴史書では当たり前のことなのだ)。

 歴史をつくり、世間に伝えるのは当事者や2ちゃんねらーだが、歴史を残すのはこのオレだ。フフフ



 4年前(2001年):「真 ザ・バトルウォッチャー」2年目

 この年になると、ケーブルTVインターネットやADSLなどの常時接続がだいぶ普及します。当「ちゆ12歳」の開設も、この年の2月でした。

 1月、お兄ちゃんは、2ちゃんねるを速く読むために速読術の練習を開始
 ちょうど以前からお兄ちゃんが何度もネタにしていた若桜木虔先生が書いた「1日15分の速読トレーニング術」を本屋で見つけたので、それを買ったそうです。

 そうして、「無断リンク大嫌い!」「マサヤの世界」など、それなりに頻繁に更新。2月21日の日記では、アスキーの「テックウィン」で紹介されたと喜んでいます。
 また、フジテレビの「EZ!TV」に(電話でインタビューに答える形で)出演するなど、2ちゃんねるに詳しい人物としてメディアに出る機会も増えました。

 しかし、「ここ1年は帰宅後と休日は、ずっと2ちゃんねる(のしかも荒れたスレッドばかり)を観ている」「何やってるんだろう、オレは?? こんなこと面白いのか?」と悩むお兄ちゃん。
 相変わらず2ちゃんねるの閉鎖を望む気持ちは強く、3月30日の日記では、2ちゃんねるが初めて裁判を起こされたのを見て喜びます。


 来たぞ、来たぞ、遂にこのときが来た!
 (略)
 オレは書くぞ。ずっと前からこのときが来れば書くと決めていた。『壁の崩壊 〜 実録 2ちゃんねる裁判 〜』 夏コミ本はこれだ。


 そして、この年の夏、最大規模の2ちゃんねる閉鎖騒動が起こりました。

 簡単に言うと、2ちゃんねるを読んだり書き込んだりする人の数が増えすぎて、サーバ屋さんが悲鳴をあげた事件。
 お兄ちゃんはリアルタイムで「壺がわれる日」 「壺がわれる日〜難民編〜」 「2ちゃんねるが売りに出される」 「避難所物語」と追っていき、事態がおさまると、「壺がわれる日〜THE END OF 2CHANNEL」という長文(「序章」 「第一章」 「第二章」 「第三章」 「第四章」 「第五章」 「第六章」 「ONE MORE FINEAL I need you」)にまとめました。

 一方、この時期、フォントいじり系と呼ばれるホームページが流行。
 そのブームを作った当時の超人気サイト侍魂さんにもお兄ちゃんは興味しんしんで、「侍魂のことなど」 「また、侍魂ネタ」 「侍魂研究:狂った機械」 「侍魂研究:狂った機械2」 「侍魂研究:断章」と、続けて取り上げていきます。

 しかし、6月24日の日記では……。


 侍魂ネタについては評判悪くて叩かれるし、中にはわたしを心配する人までいた。読まされて、よほど痛かったに相違ない。ここが痛いか ウリャウリャ


 この後、お兄ちゃんが侍魂さんを大きく取り上げることはなくなりました。

 そんな感じで、夏ごろから愚痴が増えます
 たとえば、7月10日の日記では……。


 今日こそ何か書くぞ!

 1週間ぶりですね。書こうという努力はしてたんです。努力は。ただ、書いていて自分で面白くなかったり、また自分語りを書いてしまったりして没原稿にしていたのだな。

 ネタに詰まると人は自分語りをはじめ、次いで下半身について語りはじめ、そしてウンコについて語り始めたら、その人は非常に危険な状態にあると思われ。幸いわたしはまだウンコ語りに至らず自分語りの域で止まっており、しかもそれをUPする前に必死でゴミ箱に棄てている。


 また、7月13日の日記では……。


 オレってもう時代遅れなんかなぁ

 昔のニフティはよぉ、量産型一般ピーの自作自演なんかじゃねぇ、天然の本物のがいたんだよ
 オレ達昔のウォッチャーは、それを「鳥」と呼んで鑑賞していたんだ。その「鳥」はよぉ。化学調味料にまみれた自作自演の偽物の味じゃねぇ、天然モノだけが持つ本物の味がしたんだ。今の連中には分からないかも知れねぇけど。

 昔のニフティのフォーラムや掲示板にはその「鳥」が空一面に飛んでいたんだぜ
 あの「鳥」たち……いまは、どこへ行っちまったんかなぁ。


 そんな中1ch騒動なるものが起こり、お兄ちゃんも精力的に追いかけていきました。
 主要なレポートを並べるだけで、次のように大量になります。

 「アスキー元社長の西和彦 連日『2ちゃんねる』で大暴れしていない」
 「俺の戦うあいてはこいつらだ!」
 「“2ちゃんねる”には欠陥がある!」
 「あめぞうの復活」
 「ひろゆきの十字架」
 「ひろゆきの十字架(その3)」
 「ひろゆき大統領、1ch.tvと『交渉はしない』」
 「1ch.tv考−ゴミはゴミを呼ぶ−」
 「あめぞう原理主義運動と1ch.tv」
 「富士見いおた氏が『反2ちゃんねるキャンペーン』を宣言」
 「『清水康司こそ、1ch.tv最大のコンテンツである』 切込隊長国防長官」
 「1ch.tvでクーデター?年金氏、富士見いおた氏が追放?」
 「年金氏『氏ぬ準備は出来ている』 単独会見で」
 「1ch.tvクーデター失敗…」
 「“やさしさ”…ってなんだろう?」
 「ひろゆきとあめぞうを思ふ」

 しかし、12月11日の日記では……。


 少なくとも2年前はバトルを見ると心が躍った。それがいまは何だ??(略)1ch.tvで祭りが起きた時を目にした正直な感想、、、

 ダリ〜(;´Д`)

 まるで本を読んだら読書感想文を書かなければいけない小学生の心境。(略)そこのウォッチサイトを運営している君、君、君もいつかきっとこうなるぞ



 3年前(2002年):「真 ザ・バトルウォッチャー」3年目

 もろもろの事情で「真 ザ・バトルウォッチャー」のアドレスが変わったりしましたが、大きな変化はありません。

 「浜崎あゆみ騒動」「いちごびびえす問題について語ろう」続き)、三枝さんの近況などをレポートした「作家の肖像」など、それなりに多くの更新があり、「切込隊長離脱問題」「動物病院裁判判決要旨」といった2ちゃんねる関係の話題は多いです。

 鎮静化した1ch騒動のその後も、それなりにレポートします。

 「富士見日本一の兵(つわもの)」
 「『モナー』vs『バリューエクスチェンジシステム』」
 「共同体幻想への無批判な依存の否定(と、嫌悪の証明)」
 「今ごろ思ふ 1ch.tvはなぜ生まれたのか?」
 「1ch.tv落城」
 「1ch.tvの陣 落日の章」
 「反2ちゃんねる過激主義〜彼らはなぜ闘うのか〜」
 「さよなら 1ch.tv」

 そして、この頃、お兄ちゃんが最もハマったのはチャンピオン系スレ粘着荒らし事件です。
 これは、少年チャンピオンで「しゅーまっは」を連載していた伯林先生が、高校時代の同級生から「お前のペンネームはオレの本名に似てるから改名しろ」と要求され、数々の嫌がらせを受けた事件。

 お兄ちゃんは、序盤の経緯を「改名〜2ちゃんねるチャンピオン系スレ粘着荒らし事件〜」 「その2」 「その3」とまとめます。
 裁判が始まってからの話は、「来訪者編」 「そして彼は改心した」 「第2回口頭弁論」 「今日が判決」 「史上初の満額敗訴」 「決戦!<最終・兵器>編」 「残されたもの」とレポートしました。

 そして、これが、「ザ・バトルウォッチャー」のウォッチした最後の大きな事件でした。

 この夏ごろから、ぐっと更新頻度が落ちます。7月8日の日記には、「1ヶ月ほどHPの更新を止めてました」「あースッとした」「アクセス数下がりまくりである。これでいいのだ」とあります。
 7月17日の日記では、「暇だ。2ちゃんねるでも潰れねぇかな…」「2ちゃんねるが潰れるところを死ぬ前に見たいな」と、いつもの2ちゃんねる話。

 8月28日の日記では……。


 またもスランプ。今回は重症だ。いよいよ書けない、ネットに興味がわかないということに悩めなくなってしまった。スランプが重症になると、書けなくても平気になるのか…


 そして、12月29日の日記


 なんというか、こう、今年は本格的に気合が入らんでした。
 枯れたというか、飽きたというかそんな感じでしょうか。基本的に2ちゃんねる専従でやっていたのですが、足かけ3年も2ちゃんねる回りを観ていると面白い部分より、粗や面倒くさい部分ばかりが見えてくるというか。結局のところログばっか肥大化してやってること同じじゃんというか。
 (略)
 とりあえず、わたしは「特に終了する意義も見当たらないので、このまま継続ということにします」。



 2年前(2003年):「真 ザ・バトルウォッチャー」4年目

 この年、お兄ちゃんの日記の更新は、月に1度あるかないかくらいのペースになりました。
 
 「2ちゃんねるは崩壊するのか?」 「2ちゃんねるいよいよ閉鎖!?」 「ところで、ほんとうに2ちゃんねるは大丈夫なのか? 」といった2ちゃんねる閉鎖ネタが多く、それ以外では、愚痴や懐古が中心になります。

 たとえば、9月23日の日記では……。


 新しいものを探すよりも楽しくて華やかだった過去への郷愁みたいなものが今更ながら湧いてきている。あの人たちは、あのサイトはいまどうなっているのだろう? もう昔のような賑わいは戻らないのだろうか? 実に爺くさい。
 (略)
 ブックマークと記憶をたよりに昔行き着けだったサイトを観て回る
 更新終了、もう長い間更新されていない、更新は辛うじてしてはいるが、「ページが見つかりません」「お探しのページが見つかりませんでした」etc… ふーむ、宮脇俊三の「鉄道廃線跡を歩く―失われた鉄道実地踏査60」みたい。
 (略)
 昔は良かった。昔は楽しかった。今はつまらない。いつまでもいつまでも何も変わらずに昔のままだったら良かったのに。みんなわたしを置いて去ってしまった。消えてしまった。


 12月17日の日記では、とうとう「ウンコ」「ウンコ」言い出します


 サボり過ぎで、とにかく根本的に電網世界の世の中の流れが分からなくなっている。
 もっと根本的に、そもそもそんなものはわたしの人生にとって知る必要があるのかとも思ってしまう… うーむむむむむむ

 ヽ( ・∀・)ノ ウンコー

 ふー(...脱力感)

 (略)

 バトルウォッチ…バトルウォッチ……バトル………バ、ト、ル、、ねぇ… うーむむむむむむ

 ヽ( ・∀・)ノ ウンコー

 ふー(...脱糞感)



 1年前(2004年):「真 ザ・バトルウォッチャー」5年目

 この年、お兄ちゃんのバトルウォッチはほとんどありませんでした。

 6月5日、ニフティのパティオで、バトルウォッチャーの今後について次のように発言しています。


 現在のわたしの考えは、無理して終了宣言してパティオを閉鎖して、サイ トをたたむよりは(これはそれなりの準備とエナジーが必要なんです)、パティオはニフティがパティオのサービスを止めるまで閑古鳥状態で自然消滅するに任せて、サイトの方は更新せずに何年も何十年もわたしが死ぬまで放置するのが、よりいっそうの寂滅感があって「哭きの竜」の最期らしいと思うですよ。


 そして、最後の通常更新となった9月18日の日記では、昔の自分の文章を読み直して……。


 数年ぶりに見返したが我ながら実に筆が乗ってる。この頃はネットウォッチという文学のジャンルを確立してやると本気で信じていた。(略)…夢破れてなんとやら。くはははは
 (略)
 それでは、また数ヵ月後にお会いしましょう



 今年(2005年):「真 ザ・バトルウォッチャー」終了

 ニフティのフォーラムが、今年の3月ぐらいまでに全廃されることになりました。

 確かに、パソコン通信はとうの昔に存在意義を失っており、終わるべくして終わるのでしょう。
 しかし、思い出深いバトルの数々が起こったニフティのフォーラムの消滅は、お兄ちゃんにかなりのショックを与えたと思われます。

 そして、1月4日の日記で、「ザ・バトルウォッチャー」の終了が告知されました。


 例によって無気力症候群に陥っていたわたしはこう考えた。「暇だ…やることねぇ…2ちゃんねるでも潰れねぇかな…」
 (略)
 だが、そこであることに気がついた。もしも、もしも仮に明日2ちゃんねるが潰れたとしよう。わたしはそのレポートを書きことができるだろうか。暫し考え込む…幾ら考えてもその答えは否である。
 そして、気がついた。それじゃあ俺って終わってるじゃん。バトルウォッチャー哭きの竜はとっくの前に終わってるじゃん。笑った。ぶはははははは(略)そーか、終わってたのか。今ごろ気づいた。笑えるな。

 終わってるなら、潔くパティオもサイトも消すべ。ダラダラ残しておこうとも思ったけど。それは過去の自分に対する未練だ。いろいろな意味で消し去ってしまった方がいいだろう
 というわけで、ザ・バトルウォッチャーとサイトとパティオ(個人用会議室)は創設7周年にあたる2005年1月16日をもって閉鎖させていただくことになりました。


 1人の閲覧者としてはとても残念ですが、考えた末のことなのでしょう。
 そして、約束の16日の24時ほぼきっかりに、ニフティのパティオとホームページが消えました

 なお、2chの「ニュース速報+」には、ネットウォッチの先駆的存在「ザ・バトルウォッチャー」が閉鎖へというスレッドが立ちましたが……。

 >こんなサイト初めて知った
 >ネット長いが、初めて聞いた。速報+に出すような記事なの? 自分の知り合いだからとか、良く見てたからって理由だけで記事にしてない?
 >初めて知った。ほんとどうでもいい。
 >ついにバトウオも閉鎖か・・・て聞いたこともないのですが

 残念ながら、「ザ・バトルウォッチャー」を知らない方が多いようでした。
 でも、ちゆは知っています。ニフティのフォーラムやインターネットに、哭きの竜という人が生きていて、本当に、色々なことがあったと。

 できれば、お兄ちゃんの名前が「ネットの羅貫中」として、この界隈の歴史に、ずっと後まで残って欲しいと願います。
 少しでもその助けになればと思い、ほんのあらすじだけ、ここに書かせて頂きました。

 ネットアイドルちゆは、もう哭きの竜という名前ではなくなったお兄ちゃんを応援しています。

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