平成24年2月14日 「幸福の科学」の大川隆法総裁とオンニョロ物語とか

 「幸福の科学」の大川隆法総裁。
 彼がインタビューなどで語る「学生時代の自分はこうだった」という話は、毎回、内容が微妙に変化しています。

 2年ほど前の更新では、それを「最初→7年後」の変化としてご紹介したのですが、その際に使わなかった資料が少しあるので、今日は、同じようなことを「最初→4年後→3年後」の3ステップでやってみようかと思います。



 まず、大川総裁が司法試験を受けたときの話について。

 初期の総裁は、それを挫折の体験として語っていたのですが……。

1987年の
著書
頭が鈍るという理由から、夕食の量を減らしてまで、法律と政治学の勉強をしました。
しかし、一年の留年ののち、司法試験は、短答式試験には合格するも、論文試験には不合格。
国家上級公務員試験も不合格。
東大に助手として残ろうとしたのですが、成績不良につき、その道もとざされてしまいました。
そして、ある商社にやっとひろわれた感じで就職したのです。
十歳のとき、四国の山のなかで、白手袋に息を吹きかけながら、赤い耳をして、寒さのなかで勉強していた自分の姿を思い出すと、私は、涙が流れました
『太陽の法』 244頁)
1991年の
インタビュー
東大の法学部というと、「卒業記念に司法試験を一回受けてみるか」という人が多いんだよね。
一次の短答式は通ったんですよ。政治コースで通ったのは、私一人だった。
だから政治コースの学生としては、真面目に勉強した方なんです(笑)。
(『文藝春秋』 1991年8月号 330頁)

私は政治学科だったんで、法曹になりたいという気持ちはあまりなかったんです。
ただ、法学部にいるので法律の授業はありますし、勉強のため受験してみたのです。
短答だけは受かりました。短答試験受かったのは法学部六百三十人中、三十人ですから、まあまあ優秀だったんですよ(笑)。
政治学科ではトップクラスだったんですよ
(『週刊読売』 1991年10月20日号 31頁)

1994年の
著書
大学四年にあがる頃、就職の一環としてとりあえず、司法試験の準備をすることにしました。
半年通った司法試験の予備校では、六回一番となり、私の論文の参考答案で勉強した人が、かなりの数、司法試験に最終合格しました
私はといえば、短答式試験は、合格点を十点(九十点満点)ほど越えてアッサリと合格しましたが、友人の多くの予想に反して、論文式試験では不覚をとってしまいました。
実務家的答案ではなく、学者的答案を書いたことが原因であるように思えました。
私は、あまりにも学問的に成熟していたのです
当時、すでに、学説や判例を明確に批判する自己独自の視点を持っていたからです。
しかし、最高裁の判例を鋭く批判した答案に、採点官は後込みしてしまったのです。
『新・太陽の法』 344〜345頁)

 こうして並べてみると、「猛勉強が報われずに泣いた」→「記念受験にしては良い結果だった」→「あまりにも学問的に成熟していたので落ちた」という感じで、大川総裁の過去はポケモンのように段階を踏んで進化することが分かります。



 また、大川隆法総裁の就活についても……。

1987年の
著書
そして、ある商社にやっとひろわれた感じで就職したのです。
十歳のとき、四国の山のなかで(中略)私は、涙が流れました
私は、この世的に成功しようとすると、つぎつぎと打ちくだかれていったのです。
『太陽の法』 244頁)
1991年の
インタビュー
── なぜトーメンに就職したんですか?

たまたま高校の先輩で兄貴の同級生が勤めてらして、「なんなら紹介するよ」という話があったんです。
やっぱり田舎出の人間の特徴で、都会育ちの人だとよく情報が入ってくるのに、そんな話を聞ける人もいないし、やみくもに勉強だけをする、そういう学生でしたからね。
就職が決まってから、「なんで商事にいかなかったんだ?」と聞かれて、「商事って、なんや?」「三菱商事だ」「ああ、そんな会社、そういえばあったなあ」(笑)。そんな調子だったんです。
東大に人気のある銀行にも、内定が出たんです。
でも、僕はとても集金なんかできない、と思ったわけ。「カバンを取られると大変だ。銀行はどうも危ない」(笑)
(『文藝春秋』 1991年8月号 331頁)

1994年の
著書
自分としては、予想をもしていなかった道でしたが、ある総合商社の人事担当者から「『三顧の礼』をもって迎えるから是非とも当社に」と懇願され、東大の先輩で、スタンフォード大学でMBAをとった常務から、「ウチに来てくれませんか」と頭を下げられて、男の心意気で、入社を決めました。
しかし、友人たちからは悪評さくさくでした。
ある友人は、「政治学科から日本銀行への推薦枠が一名あるので、教授は君を推薦するというのにどうして辞退したのか」と不満顔でしたし、ある政府系の大手銀行の人事担当者は、「東大在学中に司法試験の短答式試験に合格した人は、私学とは違い五割以上は最終合格しますね。しかも、あなたは政治学科ですから、おそらく、トップでしょう」とうれしいことを言って入社を勧めてくれました。
確かにその年、政治学科から、国家公務員試験(上級)に一番の成績で合格して大蔵省入りした知人は、短答式試験に落ちていましたから、相手の言うことにも一理ありました。
しかし、私は、寄らば大樹の陰的発想に反発してしまいました。ゼロから自分の実力を試してみたい衝動に駆られていたのです。
『新・太陽の法』 346〜347頁)

 「望むような就職ができなくて泣いた」→「大手銀行の内定も出たけど、世間に疎かったのでやめた」→「日銀や大手銀行を選べる立場だったけど、ゼロから実力を試すために辞退して、是非にと懇願された会社に男の心意気で入ってやった」と、さすがに少し盛りすぎな気もします。

 あと、91年に何度も自分で語っていた「司法試験には落ちたけど、政治学科で司法試験を受けた中ではトップクラスだったんだよ理論」が、94年の著書では「政府系の大手銀行の人事担当者」のセリフになっているのも興味深いです。

 「総裁が落ちた公務員試験に一番で合格して大蔵省入りしたエリートが、総裁が通過できた短答式には落ちている件」も、読者にとってはどうでもいい情報ですが、大川隆法総裁にとっては大切な話みたいです。



 とはいえ、個人的な印象としては、大川隆法総裁は、少なくとも自分史に関しては本当に根も葉もない完全なウソはついていないような気がします。

 たとえば、総裁の高校時代の同級生の証言と、総裁の証言を照らし合わせてみても……。

高校の
同級生の証言
高校三年の同級生は文化祭のときの印象を思い出した。
「文化祭のとき、オンニョロ物語というバケモノの話を劇でやったんです。この主人公の適役は中川しかいないっていうことで、彼に決まったんです」
『「幸福の科学」を科学する』 111頁。「中川」は大川総裁の本名)
大川総裁の
著書
高校一年、二年と続いて、文化祭には劇の主役として登場しました。
自分としては大変不本意な人選をされたと憤慨しましたが、あとあとまで、演劇部の女子生徒から入部を勧誘され続けたことを考えてみると、何らかの才能はあったのかもしれません。
「新・太陽の法」 338頁。学年の違いなどは同級生の記憶違いなのか、詳細不明)

それを
信者が漫画化
したもの
『マンガ 太陽の法 6』 37〜38頁

 オンニョロ物語のバケモノが、信者の脳内では学園祭の王子様に変換されたわけですが、もちろん、大川隆法総裁の「文化祭には劇の主役として登場しました」という言葉に、ウソいつわりはありません。

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◇蛇足◇

≪総裁が発言を変化させたことには、外的な要因も大きかったと思うので、その辺のフォロー≫

 総裁は、87年の著書で、「司法試験に落ち、大学に残ることもできず、就職も…」という感じに、ネガティブ視点の自分史を語りました。
 すると、それを元にして、各種マスコミが「“コンプレックスだらけの人生”が『幸福の科学』を生んだのか」(『スコラ』 91年5月23日号)、「大川隆法 挫折だらけの生いたち」(『月刊Asahi』 91年4月号)などと書きました。


隆法、東大に入ってもさして幸せではなかったと思われる。(中略)一浪も気になったろうが、大学院に残ろうと頑張って駄目だったのが致命的な心理障害になったに違いない。(中略)東大法学部を出てトーメンじゃなあと隆法も言われたろう。(中略)ひとり下宿に籠って鬱屈の中の自問自答、その最中に恍惚状態になって神々の化身を夢見るうちに遂に夢と現の区別もなくなり、突如、世界最高霊のエル・カンターレ様にお成りになる段階、誰の目にも簡単にわかることじゃ。
(『新潮45』 91年9月号 92頁)

この教団の最大の特徴は、会員に年二回の割合で昇級試験を実施していることである。(中略)また、全国統一神理学検定試験(受験料五千円)という、全国共通一次試験そっくりのマークシート方式のテストも年二回実施されている。こうした一連の試験制度について、大川は「司法試験を超えるものとしてスタートさせた」と語っている。この言葉に、偏差値教育で育った若者をとらえる秘密の一端があるような気がする。と同時に、この言葉には、大川の根強いコンプレックスも透けて見えている。
(『月刊Asahi』 91年4月号 137頁)


八九年には全国共通一次試験ならぬ全国統一神理学検定試験というのをスタートさせた。(中略)どんな試験なのかといえば、「次の各文について、正しい場合には解答用紙でAを選び、誤っている場合にはEを選んでください。(1)太陽系に最初の生命が誕生したのは美しきヴィーナスの星、金星ができてからです (2)アモールの三提案のなかには、守護霊についての提案は特に含まれていない」(中略)これをつくったときの大川は、東大の教官になったつもりで、さぞかしサディズムと恍惚感に包まれていたことであろう
(『いまどきの神サマ』 90年7月発行。218頁)


 これらを受けて、総裁は、94年の著書で「どうも、この国のジャーナリストや宗教学者には、謙譲の美徳が理解できないようなので」と、ポジティブな視点で自分史を語り直した……という次第です。
 その結果、総裁の発言から一貫性が損なわれましたが、これだけ書かれたら言い返したくなるのも、人間なら仕方ないことだと思います(総裁は仏陀ですけど)。



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