再誕の仏陀・大川隆法の黒歴史

仏陀、学歴で見栄を張る
仏陀、就活に失敗する
仏陀、ラブレターを出す
補足:仏陀が学生時代のテストの点数を語る理由
付録:仏陀は一浪なのか二浪なのか


平成21年12月23日 仏陀、学歴で見栄を張る

 今年公開された映画「仏陀再誕」は、仏陀の生まれ変わりである大川隆法先生の著書をベースにしています。

 これは1989年の本ですが、当時、大川先生のプロフィールは、次のようになっていました。

『仏陀再誕』 『仏陀再誕』

 この本に限らず、1987年から1994年ごろの著書には、だいたいこの略歴が載っていました。

 ところが、最近の著書では、

『永遠の法』

 仏陀が学んだ大学名が変わっています。

 つまり、本当は「ニューヨーク市立大学」なのに「ニューヨーク大学」と申告していたわけですが、なんだか東京都立大学の学生が合コンで「東京大学です」と言うみたいで、仏陀の好感度が上がります。


平成21年12月23日 仏陀、就活に失敗する

 「幸福の科学」の基本理論書である「太陽の法」は1994年に改訂されましたが、その際、大川先生の過去も改訂されました。

 たとえば、大川先生は学生時代、「東大に残って政治学者になることを希望していた」(『新・幸福の科学入門』235頁)のですが……。

1987年版 国家上級公務員試験も不合格。
東大に助手として残ろうとしたのですが、成績不良につき、その道もとざされてしまいました
『太陽の法』 244頁)
1994年版 『ハンナ・アーレントの価値世界について』という論文を作成しました。
(中略)
教授からは、「マチュアー(成熟している)ですね。君は学者になれば大活躍できるだろう。この論文も、序文を書き添えて、内容を倍ぐらいに引き伸ばせば、法学部卒業後、助手が三年後に書く助手論文(博士論文程度)の合格レベルをすでに越えている
(中略)
当時二十一歳の私は、どうやら学問的天才性を見せはじめていたようです。
(中略)
かくして私は、『法律学』や『政治学』の学問性と価値観の不在・貧困に直面し、東大法学部には、自分が師事すべき教師がいないことを悟りました
『新・太陽の法』 341〜344頁)

 ちなみに、この部分は、そのままの内容で「マンガ 太陽の法」になりました。

『マンガ 太陽の法』 第6巻48頁

 以前は「成績不良で大学に残れなかった」と謙遜していた仏陀ですが、本当は天才だったそうです。

 その後の就活は……。

1987年版 そして、ある商社にやっとひろわれた感じで就職したのです。
(中略)
涙が流れました。私は、この世的に成功しようとすると、つぎつぎと打ちくだかれていったのです。
『太陽の法』 244頁)
1994年版 自分としては、予想もしていなかった道でしたが、ある総合商社の人事担当者から「『三顧の礼』をもって迎えるから是非とも当社に」と懇願され、東大の先輩で、スタンフォード大学でMBAをとった常務から、「ウチに来てくれませんか」と頭を下げられて、男の心意気で、入社を決めました。

しかし、友人たちからは悪評さくさくでした。ある友人は、「政治学科から日本銀行への推薦枠が一名あるので、教授は君を推薦するというのにどうして辞退したのか」と不満顔でしたし、ある政府系の大手銀行の人事担当者は、「東大在学中に司法試験の短答式試験に合格した人は、私学とは違い五割以上は最終合格しますね。しかも、あなたは政治学科ですから、おそらく、トップでしょう」とうれしいことを言って入社を勧めてくれました。
『新・太陽の法』 346〜347頁)

『マンガ 太陽の法』 第6巻52頁

 商社にやっとひろわれた仏陀の話だと思うと、ほほえましいです。

 あと、司法試験に落ちた件については、

1987年版 頭が鈍るという理由から、夕食の量を減らしてまで、法律と政治学の勉強をしました。
しかし、一年の留年ののち、司法試験は、短答式試験には合格するも、論文試験には不合格。
『太陽の法』 244頁)
1994年版 大学四年にあがる頃、就職の一環としてとりあえず、司法試験の準備をすることにしました。
半年通った司法試験の予備校では、六回一番となり、私の論文の参考答案で勉強した人が、かなりの数、司法試験に最終合格しました
私はといえば、短答式試験は、合格点を十点(九十点満点)ほど越えてアッサリと合格しましたが、友人の多くの予想に反して、論文式試験では不覚をとってしまいました。
(中略)
私は、あまりにも学問的に成熟していたのです
当時、すでに、学説や判例を明確に批判する自己独自の視点を持っていたからです。
しかし、最高裁の判例を鋭く批判した答案に、採点官は後込みしてしまったのです。
『新・太陽の法』 344〜346頁)

 一生懸命勉強したけど落ちた話だったのが、レベルが高すぎて逆に落ちた話に
 必死に言い訳する仏陀かわいいです。

 また、この辺は天上界の計画でもあったらしく……。

1994年版 後のち、高級霊たちの意見を聞いてみると、国家試験合格や自分の満足のいく就職実現は、断固妨害して、この世的成功をあきらめさせ、宗教家への道を選ばせるつもりだったとのことです
『新・太陽の法』 345頁)

 つまり、「真実の教えを広めるために下生した仏陀は、もしも三菱商事に就職できたら俗世の成功におぼれて布教を忘れるかも」と、天上界のイエスや孔子が心配していたのです。

 仏陀さん、有無同然ですよ(釈迦に説法)。


平成21年12月23日 仏陀、ラブレターを出す

 大川先生は、次のように過去を振り返っています。

1987年版 大学二年の冬から、翌年の夏までは、都会育ちの才気煥発な女性に心魅かれて、ラブレターを書きつづけていたことをおぼえています。

ラブレターを書きつづけて、半年後、やっと便せん一枚だけ返事がきました。
それをもって、二階にあがる階段の途中で、太陽の光にすけて見えるその手紙の薄さに落胆しました。
私は、彼女へのラブレターを小包にして送っていたのです。

私は、その彼女とは、わずか一度しか話したことがありません
私は、対人恐怖に輪をかけた赤面恐怖症で、若い女性とは、ひとこと、ふたこと話すだけで、あとは上気してしまい、話にならなくなったからです。
『太陽の法』 243〜244頁)

 一度話しただけの女性に半年間小包でラブレターを送り続ける仏陀こわいです





◇補足◇

平成21年12月23日 仏陀が学生時代のテストの点数を語る理由

 自分史を改訂した理由について、大川先生はこう述べています。

1994年版 私自身の個人ヒストリーについても、できるだけ詳細かつ具体的に、新たに書き下ろした。
どうも、この国のジャーナリストや宗教学者には、謙譲の美徳が理解できないようなので、飾らずに率直に書いてみた。
『新・太陽の法』 2頁)

 たとえば、「大川隆法の霊言」という本では、大川先生が謙遜して語った過去を面白おかしく年表化して笑いをとろうとしています。

『大川隆法の霊言』 016〜017頁

 ちなみに、この年表を作ったのはジャーナリストの米本さんという方ですが、映画「仏陀再誕」では、ジャーナリストの金本さんという人が電車に飛び込んで地縛霊になります

 ともあれ、そんなマスコミがいるので、仏陀も仕方なく、ラブレターを小包で送った話とかはなかったことにして、次のように詳細かつ具体的にテストの点数・順位を入れた自分史をお書きになったのです。

小学時代 「年間通算で平均点99.7」(ある試験で答えを記号でなく言葉で記入しただけで実質100点)
中学受験 灘中でも入れそうだったが、「将来、政治家にでもなる時には、地元に友人たちがいた方がよい」と、地元の中学に「平均点100点で1番で合格」。
中学時代 「500点満点で2番以下をいつも50点以上引き離した、抜群のトップを続けました。全国的なテストでも、全国で1番を何度かとり」。
高校受験 徳島市内の高校に、「郡部からの受験生としてはトップの成績で」合格。
高校時代 「通信添削で6回連続全国で1番になった」「この記録は現在でも破られていないはずです」。
大学受験 東大に上位1割以内で合格する水準を40点ほど上回る点数で合格。
大学時代 「教授や助教授の何倍かの速度で原書が読めることを発見」、「司法試験の予備校では、6回1番」をとる。
社員時代 会社の研修生としてニューヨーク本社に派遣され、「先例のない業績」を挙げる。「ニューヨーク大学の教授の面接試験を『パーフェクト・イングリッシュ』という評価でパス」。
『新・太陽の法』 334〜347頁を要約)

『マンガ 太陽の法』 第6巻28〜29頁
地元小学校の職員室でウワサの仏陀

『マンガ 太陽の法』 第6巻80頁
トーメンのニューヨーク本社でウワサの仏陀

 「太陽の法」は公称1000万部が出版されており、「二千年、三千年のちの人びとにまで読みつがれてゆく」「仏典、聖書として、後の世でひもとく」予定の本です。

 そんな宗教書に、仏陀が何点満点の試験で何点を取ったという訳の分からない話が延々と記載されてしまったのも、すべて謙譲の美徳が理解できないジャーナリストが悪いのです。


平成21年12月23日 仏陀は一浪なのか二浪なのか

 ところで、仏陀が東大を受験したときの話を読むと……。

1987年版 十代の自分をふりかえると、まったく亀のようであったと思います。
私は、兎のようにあかぬけた秀才にはなれなかったのです。
田舎育ちの少年は、十八歳の春、三十キロを越す本をバッグにつめ込んで、東京駅に降りたちました。
まだ凍えるほどの寒さだったというのに、顔を上気させ、汗を流しながら、どうやって渋谷駅に行ったらよいかがわからず、途方に暮れていたのです。
この春、東京大学文科一類を受験して、二次試験不合格となりました。
翌年は、蛍雪一年の功があって、なんとかすべり込みました
『太陽の法』 242〜243頁)
1994年版 大学受験に関しては、昭和五十年の暮れには、大手予備校の東大入試模擬試験で、東大文I(法学部)なら、上位一割以内、文II(経済学部)文III(文学部)ならトップか、それに準ずる成績で合格するとの予測結果を得てホッとしました。
本番では、この模擬試験より、さらに三〜四十点(四百四十点満点中)高得点だったようで、秘かに一ケタ合格を期待しました。
そして、昭和五十一年春、首尾よく東京大学文科一類に入学しました。
『新・太陽の法』 341〜344頁)

 「飾らずに率直に書いてみた」という改訂後では、浪人したことを伏せています

 それはさておき、改訂前の自己申告によると仏陀は一浪ですが、1990年7月の「別冊宝島」では、ジャーナリストの金本米本さんがこう書いています。

大川自身は「どうしたわけか東大に入れた」というが、実は二浪して東大に入っているのである。
(中略)
東大受験に二度失敗したこと
(中略)
二度の東大受験に失敗
『いまどきの神サマ』 214、221頁)

 現在でも、Yahoo!知恵袋に「大川隆法総裁は、1浪ですか? 2浪ですか?」という質問が出たりしますが、この二浪説の発端は米本さんの文章です。

 ただ、その後の浪人回数に言及した報道を時系列順に見ると……。

2浪して東大に合格。(『FOCUS』 90年9月21日号)
2浪してようやく東大法学部に入学したという。(『アサヒ芸能』 90年9月27日号)
一浪後の昭和五十一年、東大文Iに入学(佐野眞一、『月刊Asahi』 91年4月号) ※3月6日発売
1浪の後、76年東大文I合格を果たした。(『週刊ポスト』 91年3月29日号) ※3月18日発売。『月刊Asahi』記事への言及あり
一浪して東大に入学。(『スコラ』 91年5月23日号)
1浪して東大法学部に入り(『週刊現代』 91年5月25日号)
一浪後、東大文科一類に入学。(江川紹子、『文藝春秋』 91年8月号)
一年の浪人の後、七六年に東京大学文化一類に入学。(有田芳生、『現代』 91年8月号)
一浪も気になったろうが、(石堂淑朗、『新潮45』 91年9月号)
1浪後の昭和51年、東大文Iに入学。(早川和広、『フライデー』 91年9月6日号)
(確認できた範囲の初期報道まとめ。同じ筆者による記事などは適当に省略)

 ちゆの見た限りでは、仏陀を二浪としているのは最初期の報道だけで、「別冊宝島」を参照したようでした。
 (仏陀が一浪だという正しい情報を広めたのは、佐野眞一先生の隠れた功績みたいです)

 二浪説の根源の「別冊宝島」も、文庫化された際には「一浪」に訂正しており、どうやら、仏陀が「一浪一留」なのを、年齢から逆算して勝手に「二浪」と勘違いしただけだったようです。

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